最終声明


[目次]
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はじめに-経緯-
KGC(Kyodai girls collection)について
BRUFF NF FASHION SHOW 2012について
「 (旧)京都大学的B少女コンテスト」改め「京都大学的仮装コンテスト」について
総論

コラム(順次公開予定)
・くすのき下焼肉事件
・医学部生セクハラ事件
など


以下が本文です。
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2013/04/07 本声明で言及しているデザイナーの松井諒祐さんから、こちらの言及で松井さんの名前および経歴をあやまって記載しているというご指摘を受けました。お詫びして訂正します。


はじめに―経緯―


 私たち「京大の『ミスコン』について考える人たち」は、第54回京都大学11月祭(2012年11月22~25日にかけて開催)における3つの企画について、それぞれの企画団体と話し合いを持ち企画について意見を交わしたり、企画について意見表明を行ったりしてきました。本声明文は、この一連の出来事についてまとめるとともに、「京大の『ミスコン』について考える人たち」としての見解について述べるものです。
 またここでは、3つの企画団体とのやり取りの概略を振り返っておきます。実際のメールや話し合いの内容については、各章をご参照ください。

 初めに、第54回京都大学11月祭において企画されることが決定していた「KYODAI GIRLS COLLECTION」(以下KGC、主催girlsrunner)、「BRUFF NF FASHION SHOW 2012」(主催BRUFF)の両団体の企画内容が、「女性」に「オシャレ」であることを求めるような社会規範を強めるものではないかと懸念を抱いたメンバーにより、2012年11月3日、両団体に説明会の開催を要請する趣旨のメールを送るにあたってfacebook pageでメール案について意見を募りました。翌日、メール案作成メンバーにさらに数人加わり討議したうえで、両主催団体と11月祭事務局へ説明会開催を要請するメールを送る運びとなりました。その後、11月祭事務局が仲介する形でKGC主催団体と、11月7日・15日の二回にかけて話し合いが開催され 、
「一般的に高く評価されるファッションをしなければならない という社会規範は確かに存在する。 しかし、その社会規範は決して悪いものではなく、 ファッションを高く評価されたければ、それに従わざるを得ない。 それが社会に適応していくということである。 そして、それに対する努力をしなければならない。 一方、一般的に高く評価されるファッションをしないのであれば、 同時に、自分のファッションを貫くだけの 個人の強さを身につけなければならない。 このように社会規範の是非を巡る論点でした。 どちらの主張が絶対的に正しいというわけではありませんが、 社会規範に日々迫られ、社会的に蔑まれ、 死ぬほど苦しまれている方がいらっしゃり、 KGCの開催はその苦しみを増大させるとのことでした。 私たちとしても、考え方が違うとはいえ、 目の前でそのような悲痛な叫びを伺い、 そのように苦しまれている方々を踏みにじってまで、 KGCを開催することはできないと判断致しました。」

 という主催団体の判断から企画は中止されました。(「」部分は11月19日 KGCのfacebook pageより引用)
同様に11月祭事務局の仲介のもと11月6日・13日にBRUFFとの話し合いが行われました。しかし、こちらが納得できるような企画内容でないまま当日を迎えることとなり、さらにそのことについて十分な説明がなされなかったため、11月25日のファッションショー開催中にクスノキの下で焼き肉をするという抗議活動を行いました。11月祭終了後にも、こちらからBRUFFへ話し合いの継続を要求しましたが、現在BRUFF側は話し合いを拒否しております。

 ちなみに、KGC・BRUFF両団体との二回目の話し合いが行われる前に「京大の『ミスコン』について考える人たち」の意思決定主体を定めました。
 また、11月11日には「京都大学的B少女コンテスト」(主催エネ研院生会)という企画が、多様であってよい「性」や「装い」を限定してしまうものでないかと懸念を抱き、企画について説明を求めるメールを主催団体に送りました。メールのやり取りを経たうえで11月18日に主催団体と話し合いを行い、参加者の募集要項や企画内容の一部を変更し、さらに企画名称を「京都大学的仮装コンテスト」へ変更することで合意し、当日の開催に至りました。
以上が一連の出来事の概略です。次の章からは、各企画についてより詳しく掘り下げて行きます。







KGC(Kyodai girls collection)について



 Kyodai girls collection(以下、KGCと表記)の企画についての情報を、web上で「京大の『ミスコン』について考える人たち」(以下、人たち、もしくは「人たち」と表記)のメンバーの一人が発見したのは、10月末のことでした。
 KGC主催側の企画は、twitterやfacebookにおいて「京大No.1のオシャレガールを決める!」と銘打たれていましたが、その宣伝文句は「ファッションショーに参加したい!華やかなステージに立ってみたい!山田優みたいなモデルになって小栗旬と付き合いたい!そんなあなた、私たちが全力でバックアップします!」「京大No.1オシャレガールになりたい!華やかなステージに立ってみたい!大学時代の思い出を作りたい!京大男子を魅了したい!彼氏が欲しい!…そんなあなた、私たちが全力でバックアップするので、まずはご連絡ください!」(KGC主催側のfacebook pageより)というもので、後に企画者の言っていたような、「純粋にオシャレさを競う」企画であることは押し出されておらず、当初からむしろ男性からの視線を非常に意識した「オシャレ」を競わされる、という形式が前面に現れたものでした。

 現在、日本国内では数多くのミス(あるいはミスター)コンテストが行われています。関西の大学においても近年、長らく行われていなかったこうしたミス/ミスターコンテストが、各大学の名前を冠して開催されるようになっています。こうした近年開始のミスコンも含め、古くからのミスコンにも「容姿・外面だけではなく内面を競う」(ミスきもの京都のように)、「ファッションのアピールにより競う」という形式のものは多くあります。これらは決して目新しいものではなく、またその本質的な部分において旧来の「外面だけを競う」ミスコンと変わるところはありません。
 まず、ミスコンは「美」やその他のものによって、あるカテゴリの人々を評価することがその軸としてありますが、これらの評価する側/される側が対等であることはほとんどありません。ミスコンは(その名前の通り)未婚の女性を対象に、男性たちがその美しさを競わせ、評価するという形式を元にしています。ミズ・ミセス・ミスターコンテストはそれにたいする批判をかわすために生まれた、派生であるといえるでしょう。
 また、その基準は一般に、社会的に浸透した美や女性らしさ(あるいはそのカテゴリの〇〇らしさ)といった性別規範の基準に則っており、これは審査員に男性以外や、最近多く見られるweb上の一般投票を含んでいても同様です。むしろ、男性の審査員が「女性」達を審査する形式よりも巧妙になっただけかもしれません。
 問題は、私たちの日常生活には個人の違いや多様性を超えた、あまりにも強く、そしてそのために普段殆ど意識されない規範が働いていることでしょう。この規範を無意識あるいは意識的に踏襲することで、私たちはそれを更に強めてしまうことになります。
 私たちは個人個人でさまざまな特性を持つように、ひとりひとりが多様な性を生きています。「表現の自由」を唱えながら性別規範に則った表現を再びなぞるだけの行為は、性の多様性を否定し、二元論に基づく性別規範から外れるひとを場から疎外します。
 私たちは、当初web上から得られる情報から、この企画についての問題点をいくつか提起しました。

(1)なぜ「女性」に出場者を限定するのか


 KGC主催側のfacebook page上には当初、応募資格として「①京大生である ②11/23(金曜・祝日)12:45~13:30の予定があいている」とだけ記載がありましたが、第1回目の話し合い当日に配られた資料には「京大に在籍する女性」と更に細かい指定がありました。
 これについて私たちは、女性と限定して「オシャレさ」を競わせることが、今現在も社会にあるような性差別を助長し、さらに規範を強化していくことにつながるのではないか、という懸念を示していました。
 そもそもの疑問として、「オシャレさ」をなぜ女性だけが「本気で」競わなければならないのでしょう。ことに今回の企画を含めたミスコンに類する企画の中では、「オシャレ」は「モテる」といった言葉と結び付けられてアピールされます。「京大No.1オシャレガールになりたい!華やかなステージに立ってみたい!大学時代の思い出を作りたい!京大男子を魅了したい!彼氏が欲しい!…そんなあなた、(以下略)」など、KGC主催側による企画の宣伝文句からは、「オシャレ」=「モテる、他者の(特に、恋愛相手として設定された異性の)視線を意識している」という構図を見て取ることができるでしょう。
 こうしたことから私たちは、KGCの企画では、性的に魅力的な女性を衆目に晒して選ぶ、というミスコンの形式がそのまま維持されており、「オシャレさ」で選ぶというカムフラージュをしたとしてもその形式が持つ問題点が解消されないのでは、という疑問を示しました。

 これについてKGC主催側からは「もともとミスコンを企画しており、(女性に限定したのは)そこからの自然な流れ」という回答がなされました。さらに「女性とはどういう定義か」と質問があり、KGC主催側からは「女性とは自身が女性だと思っているひとのことである」という回答がなされました。
 しかし、第2回の話し合いにおいてKGC主催側から提出された資料では、応募資格は「基本的に戸籍上の女性」というさらなる限定が付加されていました。第1回の話し合いの場で行われた回答と全く異なる状況に質問が相次ぎましたが、これに対しKGC主催側は当初「(前の話し合いでは、)突然聞かれたので、(女性の定義について)あまり考えたこともなく、(団体としての意見と)違うことを言ってしまった」「この企画は女性に限定していない。個別に相談に応じる」としていたにも関わらず、最終的に「僕達がやりたいことのイメージとして、TGC(Tokyo girls collection)のようにいろんな女性が華やかでオシャレな服装を着て、ステージ全体に華やかさを提供して観客の方々にもそれを楽しんで欲しいというものがある。そこについては妥協できない。『どんな性を生きる人でも』、とか段ボールファッションでもとなると、僕達が思っているようなイベントにはならないからそうはしたくない。そうすると、いろんな意味で女性とは言っても、『女性』という言葉を使った(使って参加者を限定した)段階で差別性を発揮してしまうことは理解しているが、僕達はやっぱりこういうことがやりたいし、NFOからもこの企画は公序良俗に反していないと言われているので、やはり女性を対象にした企画という部分は曲げられない。」と、意見が二転三転しました。
 KGC主催側は、ミスコンは容姿を評価するので問題があるというNF事務局の意見を容れ受け入れ、企画提出段階で、企画の一部を変更しましたが、「ファッションを評価すること」は差別にはあたらない、と強く主張し、その後2回の話し合いによりKGC主催側の無意識的な差別意識が明らかになりました。KGC主催側は、話し合いの中で「ファッションというのはオシャレさで評価されたいひとがすること」「評価されたいなら(女性は)化粧をするべきだ」「(女性というだけで採用しない企業があればそれは性差別ではないか、という質問に対し)女性を取らないのにはそれなりに妥当な理由(力が弱いなど)があるのではないか」などの発言を繰り返しました。これらの発言は、そもそも私たちが日常的に、性別などによるカテゴライズをされた上で生きることを余儀なくされること、「普通」とされるものから外れたときにうける圧力や、カテゴリーによって社会的に生きやすいかどうかが大きく異なることを全く無視して、社会的状況からそれぞれの個人が受ける圧力の非対称さを無化しようとするものです。否応なく評価に巻き込まれることを是とし、ある評価軸が現在社会的に広く認められている、というだけでそれを肯定することは、その評価軸によって不利益を被らない人間の傲慢というべきでしょう。

(2)さまざまな人を強制的に巻き込むこと


 KGCという企画で言えば、「女性が'華やかな'ファッションをして'華やかなステージ'をもたらし、NFを盛り上げる」ということを押し出し、さらにそれを上記のような宣伝文句で出場者を募ることで、主催団体であるKGC主催側は「我々の求める女性以外は、こうしたステージには求められていない」と陰に陽に示していました。「そうでない女性は応募してきていない」と彼らが語ったことこそが、彼らの「選別」が成功したことの証でしょう。KGC主催側にとっては、女性らしくない、華やかでない、そうした基準で語られたくない、戸籍上女性でない、ランウェイを他のひとたちと同じように歩けないひとたち、はそうしたステージに出てこないし、出てくることも期待されていないのです。
 そこでは、そもそもステージに上がれない、上がりたくないひとたちの存在は「無いもの」として扱われています。それにも関わらず、KGC主催側はそうしたひとたちを、大学名を使い、更に公共の場であるステージで企画を開催することで、二重に巻き込んだ上で、ステージの上である女性を「京大で一番オシャレな'女性'」であると宣言しようとしていました。
 また、KGC主催側の求める「女性」像が非常に狭い枠の、いかにも社会的に流通した女性像と合致していることは、全く驚くに値しません。
 私たちは皆、日常から装うことを余儀なくされています。私的な場から出て行く時、服は着ないと仕方ないものだし、それを全く自由に選ぶことはなかなか難しいことです。場にふさわしいか、とか、自分の「属性」に合うかどうか、周りからどんな目で見られるか、意識せずに身に付けるものを選ぶことは、ほとんど不可能といっていいでしょう。毎日がファッションショーのようなもので、既に逃げる余地はほとんどありません。KGCという企画が行おうとしたのは、そうした状況の中で「私が好きな服」が「周りから期待される服」と容易に一致するひとをステージにあげ、称揚するというものです。
 そうした企画を行うことは、ステージ上で順位を決めるか否かに関わらず、「社会的にすでに評価されたあり方」で装うひとを、社会の中で「良い」と公的な場で宣言することです。それが社会的評価の追認に過ぎないとしても、そうした評価から外れる人たちへのさらなる圧力となることはまったく意識できないものでしょうか。
 KGC主催側が例えば「女性差別もあれば男性差別もある」「評価されたいのであれば(女性は)化粧/オシャレをすべき」という形で抗議の声を無化しようとするとき、また自らの行為を差別でないと主張することそのものが目の前に居る人の差別であると認識せずそれを続けるとき、実際に彼らにはそうした差別の一形態を実現していたのだと思います。
 KGC主催側が話し合いの間ずっと主張していたのは、「傷つけていることは認識しているが、これは差別ではない」ということでした。
 そもそも差別とは何か、と聞かれた際のKGC主催側の回答は「僕が考える差別は、ある人が、自分より劣った誰かに対して、物理的精神的にダメージを与えること。」というものでした。ここに、KGC主催側の差別に対する根本的な認識の不足が露呈しています。話し合いの場でも再三言及されたことですが、そもそも「劣っているもの/優れているもの」が存在し、両者を規定できるという考えは容易に「こういう基準で劣っているので差別されても仕方ない」という考えに繋がります。実際に、過去人類史上で行われてきた様々な差別の中でも繰り返しとられてきた手法です。
 また、「差別をやめてくれ」と叫ぶひとに対し、「ここに差別されているひとなどいない、だから差別はない」という言説も、それこそ今も生きる差別の形です。訴えを無化し、無視出来る立場が、「差別はない」と言い放つことの傲慢、無恥を考えてみて下さい。また、「差別だと思わなかった」としても、「傷ついていること」を認識し自覚してなお、それを「やりたいからやる」というのでは、無責任に過ぎるでしょう。表現というもの自体が常に誰かを排除したり、傷つけることを内包しているにしても、それに向き合わずに「やりたいからやる」と言い放ったこと、これも大きな問題であると思います。

 今回の話し合いを通じて、KGC主催側の目の前には様々な語り口でそこに辛く、苦しい思いをするひとびとがいるということが可視化されました。たとえそれが、実際にそうした思いをするひとのほんの一部だったとしても、そうした人たちがいる、ということを目の当たりにしたことで、これから生きていく上での「自分からは見えないかもしれない他者」「踏みつけているかもしれない他者」への意識を持ってもらえれば、せめて抗議をした意味があろうというものです。
 私たちは全て、そこに自分が認めようが認めまいが、様々な他者と暮らしていくことになります。それが社会という場です。そこで何かを振る舞うとき、表現するとき、自分には見えないかもしれない他者の多様性への意識が、必要だと思います。

BRUFF NF FASHION SHOW 2012について



服飾団体BRUFFを見つけるまで


京大ガールズコレクション(KGC)のほかに、昨2011年度すでにBRUFFという服飾団体がファッションショーを時計台で実施していたことに気がつきま した。この2012年度も、BRUFFのツイッターアカウントでは、5月時点ですでにNFのフィナーレとして時計台でファッションショーをやると宣言して おり、発見したときには、NFの企画抽選は11月ではないのかと大変驚きました。ファッションショーの詳細だけでなく、それをやることの是非について BRUFFの考えを聞こうということになり、11月3日、服飾団体BRUFFとNF事務局へ宛て、話し合いを求めるメールを送信しました。

話し合い前にBRUFFをサイトで見るかぎり、おかしい・よくわからないと思ったこと

 話し合いの前にBRUFFのサイトを確認して、おかしいと感じるところは、だいたい以下のような点でした。

・時計台前なのに有料席があること

座席指定S席(1,000円)、A席(500円)を設けて[1]、 聴衆からお金を取ろうとしていました。また、立ち見席(無料)というのもありましたが、通行人との区別はどうするのかまったくわかりませんでした。 2011年にBRUFFがファッショショーをおこなったときには有料席はありませんでしたが来場者2000人とあり、おそらく時計台前を通りさえすれば観 客としてカウントしていたのでしょう。しかし、それはいささか暴力的ではないかと感じられました。ファッションショーなんて見たくない人も、いるわけです から(私のように!)。

・「Partner」の存在と広告バナーのようなもの(→話し合い後に削除してもらいました)

とくに大きかったのは、「Partner」の存在です。そこには京都市、京都市教育委員会、京都新聞社、喫茶カトレヤ、バンタンデザイン研究所、SPINNSなどが名を連ねていました。Partnerって一体なに!? NFは期間中の一企画に対する企業協賛を禁止しているはずです。そのなかの一部は広告バナー(のように見えるもの)をも載せていました。
 

 ・大阪心斎橋「バンタンデザイン研究所」[2]との関係

服飾デザインの専門学校であるバンタンデザイン研究所については、サイトのトップに広告バナーが貼られていました。そして、今年のデザイナー5人のうち3人 (吉川純平Gobbledigook、星田龍太Hoshida Ryota、佐々木悟Rembrandt van Rijn)がこの服飾専門学校を卒業していると書かれています。
また、ファッションショーのフライヤーにも、バンタンデザイン研究所の大きめの広告が背面に載っています。このファッションショーとこの企業との関連は薄くはないと考えました。

・「見た目」の優れたモデルの起用

モデル紹介を見ると、わざわざ準ミスユニヴァースジャパンやファッション雑誌の読者モデルを起用していました。「美しい」とされる人たちなら、どんなに服の デザインを芸術という観点から評価することが難しくても、きっととりあえずは「美しく」見せてくれるという意図がありそうだと考えました。
 

・そして、肝心の服は…?

何しろ、服ではないほかの部分がすごいのです。ショーの音楽にはプロとしても活躍している大学生を呼び、Partnerとして行政まで関係していて、モデル には「美しさ」のコンテストで高い評価を受けた人が起用され、なんといっても「京大NFのフィナーレ」でS席・A席という料金を取って通りすがりの通行人 まで「立ち見」あつかいで公開されるような服って、いったいどんなすてきなものなんでしょうか!
しかし、肝心の服はそのサイトからはちょっともわからないのです。せめて、服の製作発表なら、パターンの一部をきちんと見せてくれても(決して「製作風景」の写真としてではなく)よいのではないでしょうか。

BRUFFに検討してもらいたかったこと


 こうした疑問を抱えながら、BRUFFに検討してもらおうとしたのは、有料席を無料席にして開放することでした。もっとも、これは「検討する」と言って持ち帰ってもらったものの、実現しませんでしたが。

・有料席→開放して!

京都大学の時計台前は、公共の場です。そこにいる人に「目的」が他者から求められることはありません。誰かによってその空間が独占されることもありません。 それなのに2012年11月25日だけは、このままでは全員がファッションショーを見に来た、最低でも「立ち見席」の、人になってしまうのです[3]。 そうした開放されている空間をわざわざ「お金のかかる場所」として学園祭で仕立てあげる必要が、あるのでしょうか?ただの服の製作発表なら、そのまま飾れ ばいいのです。モデルに服を着せずとも、インスタレーションによって見に来た人を魅了することもできると思います。「Partner」から資金を得ている なら、なおさら聴衆からお金を取らなくてもよいのではないでしょうか?
  

 ・モデルの人格や属性まで利用して服の製作発表をしないで!

  この企画は、ファッションショーを開催し、サークルのメンバーが製作した服を発表するのが目的なのですが、ファッションショーを告知するブログで紹介され ているのは、スタッフの性格や気持ちやモデルとしての受賞歴や体型維持の工夫などでした。すべてのメンバーが注目を浴びるようにと配慮したのかもしれませ ん。しかし、それによって覆い隠されていたのは服のデザインのよしあしだったのではないでしょうか?
それに、起用されたモデルはミスユニバースジャパンで2位を取っていたり、読者モデルだったりといった側面が強調され、どう考えても社会的な「美の規範」と して紹介されていました。そうした人によってデザイナーは服の制作意欲がかきたてられるのかもしれませんが、では、大半の、「そうではない」「そうはなれ ない」女性は、何を着たらよいのでしょう?これを書いている私も、美しくもなくモデルでもなくミスコンで入賞したこともない一人の女性として、ファッションショーに出るような服は、「自分とは縁のない服」であり、その華やかさにうら悲しいものを感じているのです。モデルになれる人、ミスユニヴァースに出場 経験がある人、そういう人が羨ましいというよりも、その集めている目線の後ろ側で惨めな気持ちになっているというほうが、より正確に私の気持ちを表してい ます。結局、そういう人しか、そういう場面では服を「作ってもらえない」し「着させてもらえない」しランウェイ[4]を 「歩かせてもらえない」のです。そしてそういう「権利」を「美しい女性」に「与えてあげる」のは、結局その服のデザイン権・製作権を所有しているデザイ ナー(たいてい男性)なのです。そんなふうにして、その女性自身のモデルとしての経歴を利用して、その人に服を着る権利を与えることによって、製作した服 があたかもよいものであるかのように演出することは、やめてもらいたいと考えました。

確認したいと思っていたこと


 また、確認したかったのは、下の二つです。説明会の開催をお願いするメールを送ってすぐ、NF事務局とBRUFFから返信がきて、11月6日、第1回目の話し合いをすることになりました。

・パートナーの「後援」やバンタンデザイン研究所からの「協力」について、これはNFにおける単独企画に対する企業協賛の禁止に当たるのではないかということ

・モデル紹介でわざわざそのモデルの入賞歴などを紹介していて、女性モデルをショーの呼び水にしているが、女性自身の経歴をその服の宣伝に転用しようとしているとは感じないのかどうか

話し合いの内容


 詳しい経過は議事録を読んでもらうのが一番ですが、これまでに挙げた疑問点について、話し合いのなかでBRUFFが出した見解を紹介しておきます。
・時計台前の広場について:(事務局員の発言によると)教室企画と変わらない
・Partner:まさかスポンサーと受け取られるとは思っていなかった、資金供与は受けていない
・有料であることについて:とうぜん費用回収したい
・「美しい」人のモデル起用について:僕の服をもっとも表現してくれると思った、準ミスユニヴァースジャパンはモデル自身の経歴なのであり、美しさを規範化しているわけではない
・自分たちの企画はミスコンとは異なるものなので、その違いを理解したらそれを表明してほしい

結局のところ変更があった点と、当日の公共性は…


結局、2度にわたる話し合いで実現したのは、BRUFFのファッションショーサイトに存在していた広告バナーとパートナーの記述の削除、そのことについてと 私たちとの話し合いに関する説明文のページを設置したこと、そしてブログにおけるモデル紹介のストップでした(それまで紹介されていたモデルの記事は削除されませんでした)。私たちは、ファッションショーとミスコンの違いを理解したら表明してほしいと言われていましたので、ファッションショーとしてごまか しているほうがよりたちが悪い、という結論になったことを伝えました。
2 回目の話し合いでは、こちらの質問の意図を尋ねたりするなど、BRUFFではない人からも質問を逸らすような言論が飛び交い、それを議事進行を担うNF事 務局が止めることもなかったため、ほとんど「考える人たち」と他の人たちとの質疑応答のようになりました。思うように話し合いができない状態でNFでの ファッションショー開催日に近づき、短い期間であらためて話し合いを申し込むなどしましたがそれもかなわず、結局のところ当日のショーの内容については まったく変更のないままで実施される運びになりました。
しかし、私たちにとって時計台前の広場は公共のものであるという考えに変化はありませんでしたので、その広場にいる「目的」とは多様であるべきだというメッ セージ、そしてファッションショーが持っている、服のデザイン性云々以前に内包せざるをえないファッション産業の特質について疑問を呈するために、くすの きの下に酒と七輪を持ち込み、肉やサンマを焼くことにしました。もちろん、その会場であるブルーシートは無料で開放しました。そのときのビラは、HPに掲載してあります。

通して考えてみておかしいと思う点(まとめ)


  2012年11月25日くすのき焼肉事件以降も、服飾団体BRUFFへ話し合いの呼びかけをしたものの、NF事務局は事後的な話し合いの設定には消極的 で、サイトに独自に「遺憾の意」を表明することにし、あとはだんまりを決め込みました。そして、BRUFFも話し合いに応じようとはしません。NFのあと は、NFのファッションショーでお披露目した服を、合同受注展示会に出品して忙しい[5]ようです。そんなふうにオートクチュールの真似事をして服を製作して販売するために、ブランドに実績を作る舞台装置として、企画会場をタダで提供している NFがまんまと利用されてしまった、こう考えることはできないでしょうか?結局NFは、事務局の「大きいイベントがやりたい!」という欲求をくすぐられる 形で、BRUFFというブランドの商品化とそのついでにバンタンデザイン研究所という専門学校の名声確立にタダで一役買ってしまったわけです。これが商業 主義・ファッション業界マーケティングの侵入ではなくてなんだというのでしょうか。そして、NFのファッションショーをデザイナーの経歴として利用してそ の何が悪い、という人もいるでしょう。それでも私たちは以下の点がおかしいと感じるのです。

1.大きな背景としてのファッション産業(商業主義)とファッションへの女性のアディクション


ファッ ションショーが「成功」して、社会的に評価されることになるのはデザイナーとそのブランドです。自動的に服が「よい」ものになるのであって、そこに見ている人がその服を好きだったか嫌いだったかはほとんど関係がないのです。これは、マーケティング論でも言われている、その商品そのものに関心の薄い人(「関 与が低い」と言います)たちが示す典型的な反応で、世間的にすでに一定の評価を持っている人がある商品を支持しているだけで、その状況を見た人がそれを 「よいもの」「高価なもの」として認識してしまう現象と、何一つ変わりません。
私たちは、そんなふうに服が発表されたとき、じつは服そのものにはたいして興味がないのです。ただ単に、BRUFFのファッションショーは、音楽プロデュー サーが活躍中の若者だから、過剰で派手で大迫力な照明や音響によって非日常の空間を演出しているから、審査員が有名なデザイナーだから、モデルが社会的に は「女性の規範」として認められたことがある人だから、席料が徴収されるから(!)、人だかりができているから(!!)、「なんかすごい服なんだろうな あ」と思ってしまうだけなのです。服の絶対的な芸術性など存在せず、そうした演出によって一般の人が服のすごさを勝手に思い込んでしまうことを、いままで 自覚的に利用してきたのは、当のファッション産業です。ファッション産業の謳う服の芸術性という言葉を、もっとも諧謔しているのは当の産業の服の売り方そ のものではないのでしょうか?
女性はそうしたファッション産業で主要なターゲットとして認識されています。女性とはこのような服を着てこのようなメイクをしてこのような態度を取ることが 求められている、という「規範」を、テレビ、ファッション誌、売られている服、男性から人気を得ている女性そのもの、といったいろいろなメディアが、日々 なんの疑問もないこととして垂れ流しています。また、そうした服にはたいてい異常なまでにお金がかかり、男性と比べて企業でエリートコースを歩む機会に乏 しい女性にとっては、経済力を競い自身の他者に対する社会的優位を確認する場としても、「服装」というものが機能している[6]の です。そのためか、借金をしてでもブランドものの服やかばんを買いつづけ、ひどいときにはカードローンを支払いきれずに破産申請をしてしまうといった人も あります。そこまで追い詰められてしまうことを、その人の性格だけで片づけるべきではないでしょう。それほどまでに「服装」の地位を押し上げているのは、 さっき述べたような過剰な演出によって、服に対して、服そのものが持つ魅力以上のものを投影しようとするファッション産業です。かれ・かの女らは、実際、 そこまで女性を追い詰め、あるだけのお金をつぎ込ませようとしているのではないでしょうか?なぜなら、そのように追い詰められた女性が多いほど、かれ・かの女にとっては都合がいいからです。

2.それが時計台前クスノキという公共性のある(openの意味)空間を利用するだけではなく、そこでお金を取る(他者の排除を要求する)こと


こうしたファッション産業のマーケティングが女性を追い詰めている現状を打開するどころか、それを追認したようなミニチュアのファッションショーをおこなう ことの、どこが「自由」なのでしょうか。これでは、たんに好き放題に女性を追い詰めることに加担するだけではありませんか?NF事務局はそのように好き放 題に女性のありように介入することを京大の「自由の気風」だと言って喜び、表現の自由だと言っているのでしょうか?恐らく、何も考えていないのでしょう。 自分を取り巻く社会に対する知的怠慢が、自分のすぐとなりで存在している他者(今回の場合はとくに女性)に対する無理解につながることは想像にかたくあり ません。
そういう人は、すべての人が自分と同じようにあるものをよいと言い、自分と同じように悪いと感じる、と誤解し、自分の価値観に疑問を持たないため、それを公 然と言い放つことになんの躊躇もありません。京都大学時計台前のクスノキのある広場は公共のスペースです。そこには本来いろんな人が集まるのですが、そう いう人たちにとって「いろんな人」のなかに、ファッションショーがNFで行われることが苦痛になる人は存在していないのです。
「いろんな人」はいるけれども、すべての人がこの企画で盛り上がるに違いない。
BRUFF のファッションショーだけではありません。KGC、京大的仮装コンテスト、これらを企画した人や、NF事務局は、そんなふうに矛盾に満ちた考えを持ってい たのではないでしょうか?いろんな人がいるのに、そのすべての人を楽しませることは不可能ですし、そのような考え方自体、思い上がりではありませんか?
そのような思い上がりとともに、ある考えが「公共の場」を独占することになれば、そのようには考えない人にとってその場にいることは苦痛以外のなにものでも ありません。「嫌だから行かない」と公共の場へ訪れることをやめるでしょう。また、事実、「嫌な人は来なければいい」とファッションショーやKGCや仮装 コンテストを企画した人も思ったのではないでしょうか[7]。
でも、考えてみてください。「公共の場」は本来誰が訪れてもよく、誰にも独占されないものだから、公共の場なのではありませんか?決して、ファッション ショーなどをするためにタダで利用できるちょっと広めの舞台、といったものではないのです。BRUFFの人たちが、企画したファッションショーのやり方や 背景にある価値観が、公共の場を独占してもかまわないほど世間に問題なく受け入れられていると考えたのだとしたら、とんでもない間違いです。
さらに、ショーは見物料を2段階の料金に分けて徴収したうえ、たんに「広場」を訪れた人までも、金を払わない、「立ち見席」の観客として定義付けました。そ うして、バンタンデザイン研究所の発表では100名程度であるはずの動員数は、BRUFFメンバーの1人によって、ツイッターで5,000人と誇張される までの数に膨れ上がったのです。
私たちは、時計台前の広場のなかに、ショーの「観客」としてカウントされない最後の場所―クスノキの真下―を見つけました。そして、そこでショーのあいだ誰 の目にも分かるほど明らかに別のこと(例えば焼肉!)をしながら居合わせることは、時計台前という空間はどんな考え方、どんな人にも独占されるべきではな いという「公共性」 [8]を顕在化するためにも、非常に重要なことだと考えました。いまでも、そう考えます。
当然ファッションショーのほうが規模が大きいので、人によっては「場違い」に映るでしょう。でも、広場で誰かに向かって「場違いだ」と言う権利など誰にもあ りません。そういう人こそ、広場には「場違い」なのです。広場で何か企画をやることなどいくらでもありえます。でも、それはほかの人が別のことをする――例えば、その企画を見ずにすませて通過していけるような―空間を確保したうえでのことではないでしょうか。

3. 話し合いでBRUFFの人が言っていた、「ジェンダーフリー」や芸術としてのファッションの可能性と、当日の服装や、モデル≒女性の立ち位置


 ただしもちろん、私たちはファッションショーという企画に対して疑問を持つところから始めているので、他者の存在できる空間を確保したとしても、ファッショ ンショーが「公共の場」でおこなうに相応しい企画ではないと思っています。BRUFFとの話し合いのなかで、私たちがモデルのジェンダーバランスの悪さ (女性28人、男性7人[9]) を指摘すると、BRUFFは「あなた方のジェンダーフリーという考え方はそんなものか」という罵倒をしていました。言い方はともあれ、その「ジェンダーフリー」という考えが提示されたり、また、服はジェンダーの問題を打破してきた側面もあるということを指摘したりという場面がありました。そうであれば、公共の空間で発表してもかまわないということのようでした。しかし、誰かのデザインした服がジェンダーの問題を打破していたとしても、今回のファッションショーで提示される服が打破している作品でなければ意味がありません。このことについてすこし考えてみたいと思います。この現代に、「ジェンダーフリーの服」が存在しているのか?今回のショーで発表された服は、ジェンダーの観念を打ち破るか?ということです。
 例えば、要介護者が着る服をデザインした「Arigatoo」というブランドがあります。Arigatooのデザイナーは、そうした服に可愛いものがないか ら、このブランドを立ち上げることにしたそうです。なぜ、介護を受ける人の服が可愛いものであるということがブランドの核にまでなる必要があるのでしょ う?かっこいいものではいけないのですか?男性で要介護の人向けの服はなぜこのブランドに存在しないのでしょう?そうした「女性向けの、可愛い」服という のが発表されるとき、その服は、「女性は可愛いものでありたいはずだ」という思い込みを端的にあらわしているとは思いませんか?このブランドの名前とコン セプトからうかがえる前提は、要介護になれば要介護者自身が服を選択して購入する機会が著しく減ること、そして、そういう自由を要介護者が行使できない状 態のなかで、周囲の人間が「感謝の気持を込めて」「キュート」が売りの服を購入して要介護者にプレゼントすることです。そこまで計画された「服」とは、も はや経済活動を押し付けがましい規範にまで拡張しているものでしょう。オシャレをする自由はもちろんどんな人にもありますが、「オシャレ」というのは、本 来、他人にさせられるものではないように感じます。どんな服を着たいのか、気を遣わせるからと遠慮して伝えることもままならないような要介護者が、女性ら しさがブランドコンセプトの「可愛い」服を、周囲の善意によって着せられれば、要介護者はきっと喜ぶでしょう。しかしArigatooは、そうした要介護 の人と、介護をしている人たちの気持ちを、「女性はいつでも可愛くあるべきだ」という脅しをかけて、利用しているだけのようには見えないでしょうか。ちな みに、ブランドArigatooは服飾専門学校のバンタンデザイン研究所
文化服装学院(2013.04.07訂正)を卒業し、今回のファッションショーでも製作発表されている松井諒介諒祐(2013.04.07訂正)さんのブランドです。
 すでに紹介したように、BRUFF代表の佐藤氏は、ファッションがジェンダーにまつわる問題を打破してきたと指摘しているのですが、佐藤氏自身は「女性向け の」服を作りたいと言っています。そういうデザイナーに、ジェンダー規範を打ち破るような服を作ることができるかどうか、非常に疑わしく感じられます。そ して、男性である佐藤氏が女性向けの服を作ると公言するときに逃れえないのは、自分はその服を着ないという前提です。女はこういう服を着たらいいと提示し ながら、そうすることで生まれてくる競争心や購買意欲を煽られる現場に、自分自身が身を置くつもりはないのではありませんか?
やはり、この2つの例をとっても、男性デザイナーが女性向けの服だけをデザインするということは、部外者が「女性にこういう服を着せてあげたい」と大きなお 世話をしにきているのではないのかという気分になります。そして、その結果デザインされた服は、着せてあげたい当の「女性」に無償で配布するわけではな く、むしろブランドの付加価値をたっぷり上乗せしてそのお金を払える人にだけ販売するのだということも、ファッションショーが芸術活動の到達点なのではな く、実際には経済活動に巧妙に組み込まれていることの証左です。なにしろ、今回のファッションショーのあとで、デザイナーたちは服飾専門学校のバンタンデ ザイン研究所の協力を得て、合同展示販売をおこなったのですから、自分たちでそれを証明しているようなものです。企業協賛を禁じているNF事務局は、それ を「よかったこと」として捉えているのでしょうか?
そして、1.で述べたような女性を追い詰める状況をファッション産業が利用している以上、ファッションショーで「モデル」として存在している人(多くは女性 です)たちも、結局は当のモデルではない人に服を売るために利用されます。モデルは「服をもっとも表現する」といった芸術的な観点で選ばれるのではなく#、服の社会的ステータスをもっとも効果的に上げるために、その服を着せられているのです。
BRUFFのファッションショーは、公共の場をたんに空間として独占しただけではなくて、人々を日常から引き剥がして「祝祭的」空間#へ 連れ込み、「女性のありよう」「服装のありよう」をそこで提示することによって、無理に是認させようとするしかけに満ちていました。詳細な演出については 1.ですでに述べたとおりです。そのような場では、服のよしあしを、さらにはその服が自分に似合うのかどうかを、落ち着いて考えることは難しいでしょう。 その場は、そこで出された服が自分にとって似合うかどうか、着る場はあるかどうかということを聴衆に考えさせるための場ではなくて、ステータスの高い服を 手に入れたいという気持ちを喚起するための場なのです。
さらに、ショーのモデルの一人はミス・ユニバース・ジャパンというミスコン#で、 かつて2位に選ばれています。そして、競争原理を肯定しながら生きていることを公言してはばからない女性です。男性によって女性のあいだに持ち込まれた基 準によって無理やり女性同士が競うことになっていることには、何か疑問を感じないのでしょうか。そういう人が着るその服は、「美」という名目で、「女性」 だけが限定的に、男性が眺めている空間で知らぬ間に品評され競争させられているときに、その競争で「勝つための服」=男に評価される服といった程度の意味 合いしか持てないのではないでしょうか?だから、BRUFFのファッションショーは、芸術活動ではないと私たちは考えています。むしろ、モデルの選び方や ショーの演出を通して、「女性らしくない女性」を「女性らしい女性」よりも劣った存在として貶めることを追認することで、多くの女性に劣等感を与え、不要 な消費行動に走らせたり、自身の身体特徴について男性へのセックスアピールを基準にして考えるという規範を内面化させたりする役割を、果たしているのです (本人たちの無邪気で純粋で、だからこそ無責任な意図はどうあれ、必然的にそうなっています)。

 私たちはここでよく考えてみてもらいたいのです。このような性別に基づいた行動規範が生まれてから死ぬまですっかり私たちを拘束しているとき、ジェンダーフリーの衣装というものは、ありえるのだろうか?と。デザインがユニセックスだったとしても、私たちはそれを「女らしくない衣装を女が着ている」とか「男らしくない服を男が着ている」といった言葉で、よほど意識しなければ、「性別」の観点から評価してしまいかねないのです。それに、今回のファッションショーのデザイナーの製作態度、モデルのありようから見たとき、そうしたジェンダーフリーを掲げた服の製作はとても厳しく難しいものだと思います。それは佐藤氏 が2011年、2012年の2年間で発表してきた作品#を 見ても明らかです。みなさんは、今回のショーで提示された服装を、多様な「性」を持ったあらゆる人が着ることができ、しかもおしゃれであると自分で誇らし く思えるような、そして、人を性別による行動規範やそこから生まれる閉塞感から解放するような服装だと、あるいはそのような可能性の一端でもその服装に存在していると、感じることができるでしょうか?
でも、たとえいまからでも、そうしたデザインの存在可能性を考えることこそ、真に野心的なデザイナーであるとも言えるでしょうし、それこそ服飾を経済活動か ら芸術に取り返すための取り組みだとも言えるでしょう。また、そういう気持ちの人がデザイナーを目指しているなら、ぜひその人が発表する服に期待したいと も思います。
そうした服が出るまでのあいだ、もし私たちが服に投影されるジェンダーや、それに対する他者からの(とくに男性からの)評価を大変に窮屈だと思うときには、 何ができるでしょうか。これについては一人ひとりが考えるべきことだし、当然それぞれすることが異なっているかとは思いますが、まず、自分が好きだと思う 服、自分に一番似合うと自分が思う服を着ること、そして、男性からの女性の服装への評価や、男性に女性向けの服を製作してもらうことが余計なお世話である と伝えることから始めることしかできないように感じます。他人からの期待に応えて褒められようという欲求よりも、自分で鏡に映った自分の姿を見て似合って いるなあとうっとりする時間こそが、オシャレの本懐であるとは思いませんか?そして、そんなものは、他人から、ましてや規範を押しつけたり、その挙句たい して欲しいとも感じないような服を着せたがる、売りつけたがる人々から、とやかく言われる筋合いはないのです。

4.クリスチャン・ディオールのトップデザイナー、ジョン・ガリアーノの解雇について

 では、ファッションショーによって名声を得ようとするデザイナーこそがそのすべてのお金を巻き上げる構造の頂点にいるのかと言えば、当然そういうわけではあ りません。こうしたデザイナーも、そしてデザイナーの卵たちもまた、ファッション産業に追い詰められていることには変わりがありません。極端な例ではあり ますが、まずデザイナーについて触れておくと、クリスチャン・ディオールのデザイナーであるガリアーノは、差別発言によって2012年にディオールから解 雇されましたが、そうした発言には、ディオールで要求されるデザインの生産量の多さと、労働環境の劣悪さによって精神的に追い詰められていたことに大きな 原因があると発言していました。そして、今回の解雇は不当解雇であるとして労働委員会に訴訟を起こしています(2013年2月4日からヒアリングが始まっ ています)。自分が興隆させたはずのブランドから、あるいはブランドとともに、市場から最終的に放逐されるのは、自分の芸術センスを酷使しそれが枯渇するまで働きつづけた当のデザイナーでしょう。それが厳しい現実なのだ、と言ってそのままにする姿勢もあるかと思いますが、そういった働き方だって、人を不当に苦しめる、おかしなものの一つではないでしょうか。
 そして、そのような使い捨てのデザイナーに対して憧れを感じてその業界で活躍したいときには、どうすればよいのでしょうか。そのためには、「専門教育が必要ですよ」と説く、例えばバンタンデザイン研究所のような、ファッション業界だけではなくあらゆる専門技術職に存在している「専門学校」に入ることが最も一 般的な進路です。しかし恐らくここでも競争は私たち京都大学の学生が想像できないほどに厳しいはずです。今回のファッションショーでデザイナーをつとめた 人たちが、一般の大学生にデザイナーになる機会がないと言っているのは、専門学校をダブルスクールで出たからと言って、容易に就職先のデザイン会社が見つ かるわけではないということでしょう。こうした専門学校のあり方にも、競争主義によって人を煽ってお金をもうけるだけ儲けて、あとは自己責任ということで 学生に責任を転嫁しようという考えが見え隠れします。
 もう一度戻りますが、結局、「BRUFF NF FASHION SHOW 2012」はジェンダー規範から解放されるような取り組みだったのでしょうか?それともなにか、京都大学で勉強することに疲れた学生の気持ちを盛り上げる ような取り組みたりえる性質を持つのでしょうか。京都大学に入るまで競争主義によって煽られて勉強しつづけ、そのなかで優秀であった私たちは、そうした競争主義や偏差値主義から逃れた空間としてNFを象徴化することが多いと思います。統一テーマにもそうした意識が見られます。しかし、そのフィナーレを飾る はずだったファッションショーはと言えば、よりシビアな競争主義に基礎づけられ、個人主義/市場主義がすっかり浸透している、お金を人々(とくに女性)か ら吸い上げるための、完成度の高い仕組みの一つだったのです。なんという皮肉でしょうか。京都大学の11月祭にはいままで存在しなかったという意味では画 期的な、しかし世間的にはごくありふれた陳腐な企画をすることで、「自由」を感じたショーの関係者も多かったかと思います。しかし、そこにいたのは、自分 が繋がれている鎖の質は他の京大生とは違うんだと自慢している奴隷たちです。鎖を断ち切ろうとする行為に対して、鎖に戻るんだと大勢で繋ぎとめようとして くる人々でした。だからこそ、「他でもやっているんだから、ここでやってもいいじゃないか」という声には、私たちは「他でもやっているんだったら、せめてここから止めにしていこう」と呼びかけたいと思うのです。

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[1]はじめ、NF事務局へ提出したファッションショーの企画書では、S席2,000円、A席1,000円でした。費用回収のために必要なのでは?と思う人もいると思いますが、実際にショーの準備に関わった人は「お小遣いが全員に出されるくらいに黒字だった」と言っています。
[2]じつはこのショーの後で専門学校のバンタンデザイン研究所は、東京・大阪でこの5名のデザイナーがこのショーのために?製作した35点の作品で、「合同受注・展示会」をやったのでした。当然ですが、販売する気がそもそもあったのですね。
[3]実際、BRUFFメンバーの1人はツイッターで5,000人の来場者があったというが、バンタンデザイン研究所では100名の来場者と記述しています。どうしてそんなことになるのでしょうか?それは、時計台前をただ通過していった人たちを、ファッションショーを主催した人たち が「聴衆」として勝手に数えあげたからではないでしょうか。
[4] このランウェイは、どこにつながっているのでしょう?それは人目を引く道、例えば大通り・表通り・目抜き通りに通じているのです。ランウェイのモデルたちと 同じような服やメイクで着飾った人たちだけが、そうした道を胸を張って闊歩できるのです。そんな服を着ていない、メイクをしていない人だって、ことさらに 注目し称賛する必要はありませんが、ないものとして無視するのではなく、そこに受容されるような世界を望んではいけないのでしょうか?
[5]バンタンのニュースになっている。
[6]生活保護世帯で「子どもにはブランドものを身につけさせたい」と高級な服やかばんを買い与える、という記事をこのあいだ読んだのでそれを思った。
[7]BRUFF代表の佐藤氏はショーを見に来てくださいと言っていたので、私たちのやり方でショーの時間を過ごしに行ったのですが、聴衆から「目障りだ、帰れ」と言われてしまいました。
[8]ちなみに、大学という空間や学問は、歴史的に「公共性」「自由」ととても密接に結びついているものです。誰にでも広く公開されなければならず、それはしかも 望む人にはかならずアクセス可能である、ということが、学問の理想として、そしてかつては大学の理想としても、考えられていました。だから、ことは時計台 前だけではなく、大学という空間の問題としても捉えることができるかもしれません。
[9]これを見ても、「女性向け市場」がどれだけ大きくなっているのかが想像できます








「 (旧)京都大学的B少女コンテスト」改め「京都大学的仮装コンテスト」について



①この企画に対してどう懸念をおぼえたか


当初の企画では女装参加者をあつめてステージでゲームをするというものでした。「女装コンテスト」と銘打っていますが、出場者は「男性」を念頭に置いているものでした。つまりあくまで「異性装」としての「女装」を指していますが、このように「女装」が何の説明もなく「異性装」と等号で結ばれる前提を疑う必要 があると私たちは考えます。
最近ではユニセックス[1]デ ザインの衣服などもありますが、市場に溢れる服のほとんどは依然として「男性」用/「女性」用として性別化されています。したがってよほど意識的な衣服の 選択をしない限り、私たちはまるで自然なことのように「男装」/「女装」しながら生きているということができます。衣服を着るという行為から「性を装う」 という側面を切り離すのは難しいことであり、「男性」用/「女性」用の衣服をまるで自然と選び身につけることで私たちはジェンダー化された身体を日々再演 し強化しているともいえるでしょう。
 そのように日々演じることを強いられるジェンダーへの窮屈さを覚えるとき、「異性装」は私たちを誘惑するかもしれません。特に普段から自分が望む性で生きる ことが難しいと感じる存在にとってはこの欲望は一層切実なものにもなり得るでしょう。そのような状況を鑑みたときに、当該企画は日常において望まない性を 装い窮屈な思いをしている当事者にとってこそ解放される機会を獲得し得る企画と捉えることもできるのかもしれません。
し かし学園祭という非日常的な空間で、それもステージ上で「男性」による「女装」を披露する、という当該企画が実際に送るメッセージとは実のところ「異性 装」は衆目を浴びる行為であって然るべきであり、日常の装いには相応しくないということに他ならないでしょう。非日常のステージで「ネタ」になるとはそう いうことなのです。ジェンダー規範を撹乱するのではなく、むしろ逆に規範から外れるものは「日常」や「普通」からは排除されるという規範を強化してしまい ます。「女装」した出演者が「女性」に見えれば「キレイ」や「可愛い」ともてはやされ、「男性」にしか見えなければ「キタナイ」と言われ嘲笑されるという 風景はそう想像に難くありません。そのとき、どんなに「女装」したくとも「キレイ」「可愛い」にはなれないと感じる「男性」はそれがどんなに切実な気持ち であっても「女装」して街を歩くのを諦めるかもしれませんし、そしていつも「女装」を強いられていれても「キレイ」「可愛い」になれないと感じる「女性」 は居場所をまたひとつ失うと感じることでしょう。

②話し合いを通して


このような懸念を伝えるべく、主催団体(エネ研院生会)と話し合いの場をもった結果、「京大的B少 女コンテスト」は「京大的仮装コンテスト」と名称が変更され、ステージでは主催者のうち「女装」以外の「仮装」を入れること、既に出場が決っているチーム に対して、「仮装」を認めるとの旨の事前説明、ジェンダー規範を強化するおそれがあると主催者が判断した幾つかのゲームについての削除、コンテスト開演時 に名称変更についての経緯説明をするという対応をして頂くことになりました。

③当日イベントを観覧して


当日のイベントについては、全部で6チームが参加して行われましたが、1つが「男装」、1つが白衣の「仮装」、そして残りの4チームが「女装」(そのうち1チームの1名は動物キャラクターらしき「仮装」)、司会2名は「女装」、他スタッフも「女装」中心でした。
こ のようにぱっと見渡すかぎりにおいては「女装」参加者が中心のイベントという印象を受けるものではありました。参加チームについては主催者から事前に「仮 装」イベントになるという告知があっても、既に「女装」での参加を希望している限りは仕方のないことであったのかもしれません。
ゲー ムについては万歩計を付け、決められた歩数がカウントされた先着で回答権を得るというクイズ形式のものがあり、この企画そのものは事前の話し合いにおいて 明らかにされていましたが実際に観覧してみると、「女装」参加者による腰をくねらすというような「性的」な所作によって会場から笑いがおきるなど、「女性」の「性」をネタとしているような光景であったことが残念でした。また、司会進行において司会者の一方がもう一方に対してどの参加者が「タイプ」である かを尋ねることや、また聴衆へのインタビューにおいてステージ上の誰がもっとも「可愛い」と思うかを尋ねるなど、「好きな格好で表現すること」を称揚する のではなく、「他者の視線に受け入れられやすい格好」をもてはやすという、「異性装」を実践する際やトランスジェンダーとして生きる際に抑圧として働く 「パス」[2]規範を強化しかねない振る舞いが無自覚になされたことは、結局は「異性装」をイベント化することで起こり得る抑圧への懸念が伝わっていなかったことを感じました。

④総括


主催者の方々は企画名の変更やゲームの内容を再考するなど真摯に思える対応を見せてくれていただけに、当日の企画において結局のところ性をネタにする振る舞 いがなされたことは大変残念でした。主催団体内部での意識浸透が十分でなかったのかもしれませんが、それよりも、如何に性を消費することに慣れきった社会 に私たちが生きていることかについての証左であるのかもしれません。そして話し合いの場では主催者の方々は、自分たちが「女装」をしてステージに立ちた い、大学卒業を前に盛り上がることがしたいという意志から企画したという旨の企画の経緯説明を頂いていましたが、これも抑圧されたジェンダー規範からの解 放的な欲求とはそもそも異質の、ホモソーシャル[3]な 共同体(この場合は大学の研究室空間における関係性)における絆を深めるためのイニシエーション(儀礼)として、つまり最初から「健全な男たちの友情」を 強化するための度胸試し的な儀礼的イベントとして無意識的にミソジニー(女性蔑視)とホモフォビア(同性愛嫌悪/恐怖)をそもそも内包していたのかもしれ ません。その真偽は定かにはないにしても、今回のイベントを通して一つ明らかなことは、京都大学という競争選抜の規範を極度に内面化した集団が集う空間に おいて、性に限ってはその多様性が称揚されるというような「例外」は当然期待もできないし、またしてはならない、このことに尽きるのでしょう。
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[1] 男女どちらでも着られる衣服、髪型、およびそれを身につけるファッションのこと
[2] 望みの性で日常的に通用すること。例えばMtF(Male to Female)であれば他人から女性であると、FtM(Female to Male)であれば他人から男性と見られること。
[3] ホモフォビアとミソジニーを基本的な特徴とする、男性同士の強い連帯関係のこと







総論



社会規範の存在


  私たちが生きているこの社会には、「社会規範」と呼ばれる数多の不文律が存在する。「道徳」や「倫理」と呼ばれる、「~~するべきだ」「~~であるべき だ」と言うようなものである。こういった規範は、歴史上あらゆる、人間が構築してきた「社会」において、存在するものである。社会規範は社会全体の利益に 適っているという点で合理的だと認識されており、その規範に沿って行動することを、その社会に属する全ての人々に押し付ける。こういった押し付けを、「同 調圧力」と呼ぶ。同調圧力はしばしば深刻で、規範に沿って行動しなければ、社会の構成員として失格だとされ、奇人変人扱いをされたり、時には生命の安全を 脅かされたりする。規範は、本来社会の歴史の中でできあがっていったものであり、その社会に属する個々人がその社会に属する前(生まれる前など)からでき あがっているものである。それにも関わらず、多くの規範は、その人の内面にこの社会での合理的な生き方を押し付ける。このような状況下で生きていくため に、多くの人々は、そういった元は外部から押し付けられた規範であるものを、個人のものとして内面化し、その行動により規範を遂行することで日々再生産す る。
  例えば私たちが生きているこの現代日本の社会では、「スカートを“男性”が履くのは恥ずかしい」「結婚適齢期に達した“女性”は、美しく着飾るべきだ」 「社会に出る“女性”は、化粧をし、身なりを整えるべきだ」「生まれ持った性別(Sex)に基づいて生きるべきだ」「“異性愛”が普通だ」「結婚して“家 庭”を持つのが“一人前”だ」などという規範が存在する。ここに挙げたような規範は、現代日本で生活している人間にとっては、当たり前で、疑問を感じな い、その規範の意味や不条理さについて一度も考えたことがない人も多いかもしれない。しかしこういった規範の一つ一つには、個人の尊厳を脅かしてまで維持 すべき程の合理性は、露ほどもない。
  「美しく着飾るのが“イイ女”」とされる社会において、美しく着飾ることのできない“女性”は、“一人前”ではない。「“女”としての良さ」は、顔の造 形、仕草、身のこなし、喋り方、発言内容、ファッションから生き方の選択肢に至るまで、あらゆる面において社会から“判定”される。この判定に「“女”と して失格」の烙印を押された“女性”は、自らの性自認に関わらず、“女”として生きていくことを否定された気持ちになり、生き辛さを覚える。またこの“イ イ女”判定は、こういった規範と関わりを持たずに生きていきたい“女性”にも、容赦なく襲い掛かる。「女である前に一個人である私」として生きて行きたい 場合にも、「“女”を捨てた」「強がっている」「意地を張らずに素直になれ」「黙っていれば“イイ女”なのに」などと言われ、その「“女性”らしくなさ」 を否応無く批判される。「“女性”らしくなさ」を実践して生きている場合にも、「“女性”らしい」格好をすることで、「カワイイ」「やっぱりその方がい い」と言われ、「“女性”らしさ」を離れた個人として存在することは認められないのである。
 こういった社会規範から外れた時に、私たちはしばしば「自己責任」というマジックワードを以って、迫害される。規範に乗れないことによる息苦しさは、その社会の規範自体への批判ではなく、本人の問題であるとしてしばしば軽視されるのである。

社会規範において「ファッション」が果たす役割


 こと「着る」という行為においては、その行為自体が持つ主体性、すなわち着るものを着る本人が「選ぶ」余地があるからこそ、より一層「着る」行為が招く結果を自己責任として見做されやすい。
  全ての人類は、衣服を身に纏ったり、髪型を弄ったり、装飾品を付けたりして、何らかの外見上の装いをして生きている。人類にとっての衣服は、地球環境で生 活する中で身体を保護したり、何らかを他者に顕示するためのものであり、これは習性であって、多くの人間はこの習性から逃れられない。
  このような「装う」「着る」と言った行為は、被服者本人の意思表示であると捉えられていて、またその意思表示性によって他者からの視線に晒され、判断され 評価されることが正当化されている。それぞれが所属する社会規範によって、「時流に乗っている」とされたり、「慎ましやか」とされたり、「時代遅れ」であ るとされたり、「卑猥」であるとされたり、「おシャレ」「ダサい」「似合っている」「似合っていない」「カワイイ」「ブサイク」などと評価を下される。
全ての人が否応なく、この「ファッション判定」裁判に掛けられている。

  しかし、「着る」行為とは、本当に完全に、個人の自由意志として選択できる余地を持つものであるのだろうか。「着る」行為が完全に自由意志による選択であ る為には、「着る」行為と並列して「着ない」行為があり、「着ない」ことが自然である(ある特殊な形での「装い」を表す訳ではなく、「着ない」状態でいる ことに誰も何も疑問を抱かず不便を感じない)状態であることが大前提であるが、残念なことにそのような現実は存在しない。よって、全ての人類がそれぞれ 「着る」行為に伴う選択を迫られており、その選択から発生する「自己責任」を押し付けられ、裁判に掛けられている。いくら「ファッション」によって評価さ れない在り方を望んだとしても、そのような在り方が許される場所は、この社会には存在しない。

 —考えてみてください。あなたはこれまでの人生で一度でも、自分と他人のファッションを比べて、優越感を感じたり劣等感を抱いたりしたことはありませんでした か?また、クラスメイトの、道行く他者の、決してあなたに評価して欲しいと自ら望んできた訳ではない人達のファッションについて、友人と品評して盛り上 がったことはありませんでしたか?あるいは口には出さなくとも、心の中で何かしら評価を下したことはありませんでしたか?

  このように評価され、とりわけそれによって低い評価を与えられた存在にとって、「着る」ことには精神的に負担の掛かる行為となってしまう。またその「着 る」行為は日常から切り離すことができない訳で、日々自分を勝手に低く判断してくる他者の視線に怯えながら暮らさなければならなくなる。
  「自己責任」の下になされるこのような抑圧や迫害を正当化するそれは、差別である。「装う」行為とは、それに伴う切り離せない日常性と、自由意思性(これ は実は錯覚)、そして判断され評価されやすい(すなわち社会規範を押し付けられやすい)性質により、規範を受容し乗れる強者と批判される弱者という、差別 構造をいとも簡単に生み出す装置なのである。

ファッションとジェンダー


— ここまで読んでくれた人には既に伝わっていると思いたいですが、そもそも「ファッション」規範自体が、他者を見下し差別することが起こりやすい代物なので す。ファッションとジェンダーとの関係はその部分に過ぎない訳であって、勿論そこはそこで大きな問題点ではあるのですが、ファッションに携わり、特に「オ シャレ」を生み出したい/再現したいとか考える以上、ジェンダー観点に拘らなくとも、そこには抑圧される「オシャレになれない」存在を差別する構造がある のだと言う事を意識してください。—

  ファッションは同時に、被服者を“性”から解放してくれないものである。多くのファッションが「女性らしい」「男性らしい」という基準で分けられている。 正装においても、パンプスを履くのが「女性らしく」、ネクタイを締めるのが「男性らしい」とされている。こういった規範を逸脱し、女性がマスキュリンな格 好をしたり、男性がフェミニンな格好をしたり、また特定の性別を想起させないような格好をした所で、「あれは特定の思想の基でのファッション」などと見な され、異端視されたり特別扱いをされたりする。ファッションコードが比較的自由になってきた時代だと言われていても、こういった判定は日常で当然のように 行われており、むしろ「特殊なジャンル」としてかえって多くの好奇の目を集めている時代になったとすら言える。
  また、私たちのファッションはえてして、その目的を「異性からの視線」に集約されやすい。女性向けファッション誌には「男ウケ」と言った言葉が並び、また “女性”のファッションを評する“男性”達の言葉にも「男ゴコロを分かっている/分かっていない」と言った類のものをよく聞く。「異性からの視線」規準で 評価されることが内面化された社会においてもやはり、「異性受けしない/したくない」者達は息苦しさを感じ、抑圧の対象となるのである。

  —「強者」のあなたは、「自分の境遇を周りの人に説明すればそのように抑圧されなくなるんじゃないの?」と言いたいかもしれません。でも、考えてみてくだ さい。ファッションとは、ほぼ100%が視覚的な情報で、初対面の際に第一印象を大きく左右するものです。自分について説明する頃には、とうに評価が下っ ているのです。そして実質的に自分が説明できる限界数以上の人が、それこそすれ違いざまに評価してくるんですよ。それに、異性受けしたくてもしないだと か、異性受けなど望んでいないだとか、どうして抑圧される側が、そんな自分の尊厳に深く関わる話を強者に「分かってもらう」為に痛い思いをして話さなきゃ いけないのでしょうか。そんな自分達にとって心地良い規範を押し付けて、こちらが身を擦り減らさなければ平気な顔で抑圧するなんて、そういう強者の方が変 わる必要があるのではないでしょうか…。

社会規範に苦しむ存在


  多くの人々は、それぞれが所属し生活する社会に馴染んでいく過程で、当然のようにその社会の規範を内面化する。これはその社会で“厭な思い”をせずに生き ていくための防衛のようなものであり、そうやって規範を内面化している人達が大勢いることについては何ら疑う所ではない。しかしその一方で、そういった社 会規範を内面化できず、規範に乗って生きていくことのできない人達がいる。
  例えば、私を始め、幾人かの“女性”は、「女らしくしろ」と言われることに、その程度を形容できない程の息苦しさを覚える。多くの“女性”は、生まれた時 から“女”として育てられ、先程述べたような要素をいちいち、「女らしい」「女らしくない」という基準を以って評価されながら生きている。顔の造形を以っ て「ブサイクだね」と言われたり、口応えをすると「女のくせに生意気だ」と言われたり、化粧をしていないと「女失格だ」と言われたりする。「“女”である こと」が私自身の性自認であり生き方の選択であったとしても、こういった発言に依って容赦なく私は「“女”であること」を剥奪される。生き方の選択を否定 されることは、生きていることそのものを否定されることに等しいと言っても過言ではない。
(今 回、私は行動を起こしたことの一種の責任感のようなものから自分の話をここでしましたが、やっぱりこういう話って凄く言いたくありません。今回は全体を通 して、一連の話し合いにおいて、私たちが身を切り売りしないと深刻に捉えてくれない人達が多かったので、この声明を読んでいる人にももしかしてそういう傾 向があるかもなぁと思って書きましたが、、、これは決して「考えるひとたち」の中で一般化できる話ではありませんし、他の人の事情を汲めている訳でもな い、執筆者本人の話なので、その点も悪しからず。また、身を削って話しても深刻に捉えてくれない人も少なくなかったので、ただの無駄晒しになるかもしれま せんね。本当に全く死にたい思いです)

  社会規範に傷付けられたものは、それでも「それ」を受け入れようと努力したり、強者に憧れを抱くようになったりしながら、より一層の社会規範強化に加担す る。一方で、社会規範に疑いを持ったり憎しみを抱えたりする者もいる。こういった者の中には、自分が存在する場所(=社会)の在り方について異議を唱え、 抵抗するようになる者もいる。それは、自らが身を置く場所に対して、その環境を取り巻く不条理さへの訴えかけである。そうして何とか社会規範に則らず、自 分自身にとって生きやすい生き方を模索していくようになる。
  しかし、社会規範からの逸脱を、社会規範を内面下している多くの人達は許してくれない。規範から外れたり、その規範において「下位」に位置付けられるもの は、「異常」扱いしたり、踏みにじったり、「ネタ」として笑ったりしていい存在だとされてしまう。社会規範において下位に位置付けられるものは、その規範 に乗って自己実現をしようとしても認められるのが困難であり、社会規範から外れるものは、その存在自体が「異常者」であると見なされる。こういった抑圧を 日々受けながら、生きているのである。

社会規範で楽しめる存在


  さて反対に、一部の層は社会規範において「上位」「勝ち組」として位置付けられる。「女らしさ」において上位とされるもの、「美しさ」において上位とされ るものは、まるで当然であるかのように、その規範が通用する社会において「強者」となる。社会において、規範に沿うものは、当然のように「強者」となる。 「強者」は「善」であるが故に、「強者」に追随するものが増え、持て囃される。そういった持て囃しと、その存在達が人生の中で受けてきた絶対的な「肯定」 感に依り、「強者」はしばしば自分が絶対的な「正義」であるかのように錯覚する。そしてそういった人達を「強者」足らしめたのは、紛れも無い、その人達自 身が勝ち上がってきた社会規範そのものである。その規範を多数の人が支持するというただそれだけのことに依って、それが「正しい」ものであると錯覚するの である。社会規範によって「強者」となり「正義」であると錯覚した者は、社会規範を利用することに何ら疑いを持たなくなる。社会規範に依って「正義」と化 した者は、社会規範それ自体が「正義」と同一であるかのように錯覚するからである。
  また往々にして、特定の社会規範において「強者」に位置付けられる存在は、自分達が持て囃され絶対的に肯定されるその規範を積極的に利用し、進んで再生産 していく。勿論、社会規範の再生産というものは、その積極性により一層たちが悪いとされたり、消極性により免罪されたりするようなものではない。しかし、 「強者」の場合はその社会規範に対して疑いがなく、再生産行為にも迷いが無いために、より多くの人を巻き込んだ形で、公共空間を占領してその再生産行為を 拡散的に行おうとする特徴があると言えるのではないだろうか。何にせよ、日常的に社会規範において強者に位置付けられる存在がより多くの人を巻き込む形で 規範の再生産行為を行うことにより、また一層その社会において、規範を再強化する効果を生む。このような規範の再強化に立ち会った者は、その規範こそが 「絶対」であるという印象を、これまでより一層強く持つようになるのだということは想像に難くない。そしてそれは同時に、社会規範を受け入れられない存在 への抑圧を強化し、正当化することとなる。これは「差別」である。


 そして忘れてはならないのが、社会規範の外に陣取った「絶対者」の存在である。
  例えば「“女性”の“美しさ”を競わせる」構造の外には必ず、その女性達の競争を、自分自身が全く傷付かない立場から眺めることができる存在がいる。この 存在は“男性”である。この構造において、“美しさ”を競わせられる“女性”側は一方的に負荷を受けているのだが、その“女性”達が反論しないように、眺 める側にとって都合良く“女性”達が“美貌”を競うショーが続くように、それを当然のものとして成り立たせる規範ができてしまっている。
  一方的に否応無く競争させられ(なぜ不可避なのかはここまでで述べた通り)上下優劣を定められる、というのは差別に他ならない状態であるが、その女性差別 になかなか気付かれない、指摘しても受け入れられない、改善されない原因となっているものが、「フラット幻想」である。すなわち、一方的に“美貌”競争の 負荷を掛けられている“女性”達と、その彼女達の競争をただ眺めて楽しむ“男性”達の置かれている立場は公平で平等なものである、という幻想である。本来 “男性”が楽しむ為のショーであるのに、それを全く都合良く責任転嫁して、「“女性”には“美しさ”によって社会的に認めてもらえるファクターがあるのだ から、それを利用して自己実現をすればいい」という語り口がまさしくそれであり、「“美しさ”を身に着ける努力をしない“女性”は怠惰だ」とすら平然と言 う。このような言説がまかりとおるのは全く以てフラット幻想の為せる技であり、実際には、否応なく“美しさ”を競うショーに参加させられている“女性”の 地位は明確に“男性“のそれより低い。一方的に評価の視線に晒されている状態で、平等も何もある訳がない。
 このように、一方的に特定の他者に負荷を与え規範を守らせる側こそが、社会の中心に居座って甘い汁を吸い続けているのであり、結局、“女性”が“美しさ”を競わせられる構造は、男性中心主義の社会が生み出したものなのである。

差別の告発をスルーできる“男”達


  前項の二つ目で、社会規範に動揺しない人達というのが存在し、その人達こそが自分達を中心とした社会を作っていると述べた。この存在というのが全く厄介な のである。自分達は規範に動揺する必要がない為、規範の外からやいやいと好き勝手言える訳だが、何故自分が傷付くこと無く好き勝手言えるのか、どうして自 分が無関心でいられる存在なのかをまるで自覚していない場合が多い。

  例えば今回、「女性が一方的に押し付けられる一定のファッションの在り方を大々的に賛美することは、性差別そのものである」という指摘に対して「考え方の 違い」「意見の違い」という形で片付けようとする“男性”達が多くいた。また、「男性受けが良い装いをする“女性”をあたかも理想の女性として公共の場で 陳列して見せる」ショーに反対した私たちに対して、「他人の足を引っ張りたいだけの連中」「ブサイクの僻み」というレッテル貼りをする者もいた。彼らの言 葉には「女は、男に認められるように努力するのが当たり前で、そのような努力が要されていることを不当だと主張するような奴らは『負け犬』なのであって、 自分達が望むものを見せてくれる『イイ女』達を見習え」という意図が暗に込められており、女性に対する差別心の表れ以外の何物でもなかった。
  「美しさでは敵わないかもしれないけど、他の取柄で頑張って認めてもらえばいい」などと言う者もいた。とにかく、自分達にとって都合の悪い主張をする者は 徹底的に抑圧し封じ込め、都合の良い女達だけを、その在り方だけが当然あるべき姿と見做し、また自分達が封じ込めた人達に対して何ら悪いことをしたと思い 及ばないのである。
  あるいは、「こういうイベント(ミスコン)は参加者も観覧者も全て合意の上で集まっているのであって、気に入らないのであれば、潰そうとするのではなくそ の場から出て行け、関わるな」と言う。そもそもの企画内容自体にある社会的な問題性を指摘しているのだから、「気に入らないから関わらない」で済む話では ない。“気に入らないものに関わらなければそれを無かったことにできる”のは社会の中心を占める人達にとっては成り立つかもしれないが、日常的にその中心 を占める人達に抑圧されている側にとっては、残念ながら自分達への抑圧を強めるまた一つの要因となってしまう。「見て見ぬふり」「気に入らないから関わら ない」をしていれば、より一層自分達の生き辛さが増していく社会になってしまうのである。

  自分にとって都合の良い相手だけを認め、都合の悪い者は迫害する。そんな歴然とした差別がどうして非難されず、連綿と行われ続けているのか。それが社会の 中心を陣取り、社会規範を作った者達の特権なのである。男性中心の社会においては、男性にとって都合の良い言葉だけが受け入れられ、そうでないものは「頭 がおかしい」「話が通じない」などと言って切り捨てられる。そもそも自分達が社会の中心にいるのだから、不都合な言説を聞く必要も考慮する必要もなく、の うのうと生きられるのである。そして都合の悪い言葉に対しては、「理解できない」などと適当な評価を下しておくだけで充分で、そうしておけば“男”達の間 では共感が得られ、それが社会のマジョリティの結論として、そしてマジョリティであるがゆえに正しいと錯覚して、熟慮する必要のない、無かったもの同然と して扱えるのである。

  一部の中心者達にいいように翻弄されることを快く思わなければ、当然それは「抵抗」の形として表される。私達にとっては、このようなイベントが企画された ことに対して、抵抗すればバッシングされ、抵抗しなければ日常の抑圧が増していくという、どちらを取っても最低な思いをすることに変わりなかった。それで も、そもそも男性中心の社会というのは学祭のような特別なイベントだけに表れるのではなく、日常的にあるものである。日常的にあるからこそ、今回のように 分かりやすく可視化された時にこそ、この抑圧に気付いて欲しい、抑圧される者の声を聴いて欲しいという思いがあった。

“男性”達と、男性中心社会の生み出した規範を充分内面化した人達からのバッシング、そして…


  しかし、自分の日常的な行いに対していきなり「差別だ」と指摘されると、驚いて相手の言い分を何とか無化しよう論駁しようという方向にいきり立ってしまう のも、無理はないかもしれない。社会規範で強者に位置付けられる者達や、社会の中心にいる者達にとって、社会規範に乗れない存在、社会規範に異を唱える存 在と言うのは、「理解できない」、「奇異なもの」、「野蛮なもの」として目に映るであろう。自分達が当然「善」であると肯定し、日々実践していることにつ いて、その有り様を根本的に揺らがす問いというものは、まずそのロジックが理解できないからだ。これが内面化ということである。また、このような抵抗とい うものは、えてして既に発生してしまった特定の出来事に内在する問題を問う形で行われるものであり、その出来事への改善あるいは解体要求を伴う。自分達が 当然「善」であり「正義」だと信じているものを批難されることは、そういった規範を十分に内面化した存在、すなわち自分達の存在まさしくそのものを揺るが しうる恐怖がある。

  一方、規範を内面化できず苦しみ抵抗する主体にとっては、規範に則り強者の位置を独占し、その規範を再生産しようとする、そういった行為は許せないもので ある。自分達を苦しませる規範を利用し、あたかも強者の戯れとして再生産する行為の残酷さを、切実な痛みとして認識して欲しい。批判を受けたら「攻撃され た!」とすぐに反発するのではなく、何が問題なのか、どのような形であればいいのか、ということを考えて欲しい。私達の立ち位置は決しフラットではなく、 踏み付けられている者の抗議の声を、踏み付けている側がその事(無意識に踏み付けている事)に気付き、聞くべきではないだろうか。
  勿論、これは決して容易な事ではない。ここまで述べてきた通り、今回のように提起する問題意識が社会規範に順応する主体の在り方を問うていた場合におい て、自身を省み問題点を認識する行為には、社会規範への懐疑意識が必要不可欠であり、往々にして問いかけをぶつけられる主体はそういった懐疑意識を持つこ とがままならないからである。そもそも自分達を強者として位置づけてくれるような社会規範に対して何ら不満はなく、ややもすればそういった規範を積極的に 維持していきたいぐらいなのだから、そのようなありがたい規範を疑う意義を感じられないのであろう。

  問いかけをぶつけられた側がその問題意識を共有できない時、自分達の存在を揺るがしうる運動者は野蛮なものとして捉えられ、運動を取り潰す行動に出ること がよくある。その取り潰し行為には、問いかけをぶつけてきた側と建設的な話し合いを行おうといった意思は微塵も無く、話し合いをすることすら無駄だと決め 付け、ただひたすらに運動者側を、バッシングするものである。

  バッシングの主体側は、明確に私たちを潰す目的で行動していた者から、「善意の第三者」として仲裁できることを恐らく本気で盲信していた者など、それぞれ の動機は多岐に渡る。潰す目的を自覚していた者は、ただ異質な他者を排除したい欲求とか弱者をいじめたい衝動に駆られた故の行動であったのだろうから論外 としておいて、言及すべきは「善意の第三者」であることを信じていた者達の存在である。
  私たちが問題としていた差別は社会規範に密接に絡んでいるものであり、前項で述べた通りその規範を内面化している者達からすると、野蛮な悪行者だと捉えら れてしまう。そして、彼等は本気で信じるのである。多数者に支持される自分達の考えこそが「正しい」ものなのであり、「間違った」考え方をしている少数者 達に、何が「正し」くて何が「間違っ」ているのか教えてやらねばならない、それが両者の為になる、と。実際には、多数者に支持されているというのは、弱者 を抑圧し排除する規範を身に着けていることの顕れで、また一つ抑圧的な言説を製造しているだけの存在なのだが…。

一連の抵抗活動を意味付けるにあたって


  以上述べてきたように、この社会には“男性”の作り出した社会規範に乗れず、思い悩んだり抵抗しようとする“女性”を孤立させる仕組みがある。周囲の人達 のあまりにも多くが、その規範を享受し、利用し、当たり前のものとして盲信している状況で、その規範に疑問を持つ事自体が間違っていると思わされてしまう のである。そして、規範を作っている“男性”側はこの仕組みを無意識レベルで体感している。実際今回も、多くの人達が口々に述べる理不尽なこと(意図的に バッシングの声を多く纏めたtogetterなど)を礫のように投げつけてくる人もいた。
  繰り返すが、“女性”が自分の考えを述べようとすると、バッシングされ、孤立させられる状況というのは差別である。例えその“女性”の主張が男性中心主義 のロジックからすると筋の通っていない奇異なものであったとしても、当事者である“女性”の声をそのように、自分達の考え方に合わないからと言って切り捨ててしまえることが、差別なのである。

  自分自身を晒して抗議することで、孤立させられてしまう事を恐れて動けない、発言できない多くの人達にとって、私達の一連の行動が、この声明が、何か役に 立てば幸いである。日常で感じる抑圧について、どのような些細なことであっても何か理不尽を感じた時に、また言いたい事があっても“「声が大きい」「筋の 通った」男性”達から非難されることを恐れて口を噤むことがある人に、あなたのように感じている人が決して一人ではないこと、あなたが間違っているのでは ないことを再確認して欲しい。


 私達のおかれた息苦しい状況を変えることは決して容易ではありません。しかし、だからと言って、それに疑問を持つ人達が口を噤んでしまうのは、本当に哀し い事です。確かに、社会の中心者である“男性”達に、彼等が日常的に行なっている差別を指摘するのは難しく、私達の方が切り刻まれ傷付けられる事が多いで す。そして、たった一人で抵抗することは殆ど不可能です。それぞれの生活や人間関係があって、周囲を全て切り離して生きていくことは多くの人にとって困難 だからです。でも、だからこそ、あなたが置かれているその境遇の理不尽さに気付いてください。
 今回私達は、日常で受ける息苦しさを共有し、それを助長する要因に抵抗するために集まりました。この声明に記した私達の言葉が、孤立を恐れ苦しんでいるあなたに、また今後このような抗議運動を行うことになる人達に、役立つことを願います。





(了)


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