以下は、2012/11/16のKGCとの話し合いの前に「人たち」に寄せられ、当日「人たち」から配布された文章です。以下に全文を掲載します。pdfのダウンロードはこちらから。
なお、当初寄せられていた文章には筆者の名前が記載されており、当日KGC主催側とNF事務局に渡した資料には原文のまま記載されていましたが、web上で公開するにあたり、本人の希望により名前を伏せることにしました。
また、KGCの表記に一部間違いがあったので、以下の文章においては訂正しています。
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Kyodai Girls CollectionおよびNF事務局さま
初めまして。京都大学文学研究科で社会学を学んでおります、◯◯と申します。
先日、KGCのみなさまから出された会議への回答、およびNF事務局さまから出された「お願い」について、思うところがありましてこの文章を書いております。
本 来なら、直接会議の場に出向いて話し合いに参加するのが筋ではありましょうが、残念ながら現在、12月5日に締め切りの博士論文をかかえているのと、面識 のない方と直接に対面して心情を晒すのは怖い、という感情が拭い去れず、このように文章で吐露する運びとなりました。直截に出向けない非礼をお許しくださ い。
【KGCのみなさまへ】
会議への回答について、質問があります。
おそらく、この回答の最大の問題点は「自分たちの間 違いを認めたら負け」という、話し合いや討論の経験がそれほどおありにならない方々がしばしば採りがちな対応であること、その結果として、話し合いのテー ブルに着くことを自ら拒否し、非常に横暴にふるまってしまっているということかと思いますが、それについてはきっと会議の場で他の方が言及なさることで しょうから、私からは以下の2点について伺いたく存じます。
1.「ファッションショーは差別に当たらない」という主張について
先 日、「考えるひとたち」へお送りになったメールでは、貴団体の企画は、個々人の「生まれ持った能力+努力」によって強化された「強み」を「表現する場」で あり、「出演モデル自身が自分のファッションを披露したいという自己表現の場」であるから、差別性はない、とお考えかと思います。
「生まれ持った能力」が評価の対象となるべきかどうかという問題がそもそもありますが、それもきっと、会議の場で討論されることでしょうから、ファッションについてのみ述べます。
ファッ ションにおいて、性(ジェンダー)を排することは可能でしょうか?私たちが誰かのファッションを見るとき、その服を着ている人が「男」か「女」かを一切意 識しないで見ることが可能でしょうか?「男」として、あるいは「女」としての美や迫力や雰囲気といったものを考慮せずに、服装だけを見ることができるで しょうか?たとえ服だけを陳列したのだとしても、その服を着るのが男性か女性かによって、私たちは服装の評価を変えないでしょうか。
ファッション というのは、非常に深く性と結びついた行為です。女性は一定年齢から「女の子らしい服装」(別に「愛され」でも「美魔女」でもいいですが、女性として評価 の高い服装の規範)なるものを内面化するよう求められます。男性は「男子のお洒落」あるいは「男ならちゃらちゃらするな」という規範を内面化するよう求め られるでしょう。
私は化粧もしませんし、服装は着心地のいいものを選びます。けれども、それを堂々と選択できるようになるまで、10年ほどかかり ました。私服の高校に行かなければ、もっと長い時間がかかったでしょう。その10年間(そして今も)、私は常に「どうすればお洒落になれるのか」「お洒落 とは何か」という悩みと、「そんなこと考えるのめんどくさいや」と思ってしまう自分は、女として劣っているのではないか、という不安と共にありました(今 もあります。一生あるでしょう)。
ファッションというのは、そういう行為です。あるファッションが好ましい、美しいと評価することは、その装う人 を男性あるいは女性と見なして「男らしさ」「女らしさ」を何らかの基準として評価することから、絶対に自由ではありえません。「装うことに差別はない」 「服を着てみせるだけでなぜそんなに攻撃されなければならないのか」とお考えかも知れませんが、性というものがどれほど深く日常生活に根付いているかを考 えれば、「顔や体型じゃなくてファッションセンスを表現する場だから差別にはあたらない」という論法は、性どころかファッションについても、それほど悩ん だり考えたりなさらなかった方の論法ではないかと危惧してしまいます。
なお、男性が女装を、女性が男装をしている場合であっても、性に基づく抑圧 や差別につながる表現を行う場になり得る可能性が減ることはないでしょう。私たちは「男「なのに」きれい」「女「なのに」かっこいい」という基準から抜け 出して「男装」「女装」を評価することは、おそらく不可能だからです。
2.「表現の自由」について
次に、貴団体からのメールにあ りました次の文章「また、11月祭において、京大内の諸団体・諸個人は、思想・信条等の如何に関わらず、自主的学園祭たる11月祭を成功させる意志に基づ いて、11月祭への参加が保障されております。これは一貫して保持されてきたところの絶対的な原則であります。したがって、私たちの自主性、表現の自由は 保障されております。」について、伺いたく存じます。
この論法は、論理上も、また歴史上も許容されないのではないかと考えますが、いかがお考えでしょうか。
論 理上許容されないと言うのは、以下の理由からです。たとえば「若者は年寄りのために使い捨て労働力になれ、障害者は死ね、女は働くな、働くなら男の賃金の 半額で働け、外国人は日本から出ていけ」と喧伝する団体が「自主的学園祭たる11月祭を成功させる意志に基づいて」、彼らの思想・信条を表現する場として 11月祭に参加を希望した場合、参加は認められるでしょうか?貴団体からのメールにあるこの文章は、上述のような主張もまた「表現の自由」として許容して しまうことになります。
日本には残念ながら法律として成立しておりませんが、公の場における差別が法律上禁止されている国家(連邦の場合なら州) が複数あることからも分かる通り、公共の場における差別表現は「表現の自由」には当たりません。誤解のないよう書き添えますが、いかなる思想・心情を持と うが自由です。それを公の場で表現することが禁止されているということです。
歴史的に許容されないというのは、以下の理由からです。表現の自由と いうのは、労働者や女性や障害者や外国人といった社会的少数者が、自分たちの権利を獲得するために意見を表明し、活動するために獲得されてきた自由です。 すでに十分すぎるほど社会的に流通している規範を大学内でもう1回流布させる行為を保護するための権利ではありません。
【NF事務局さまへ】
先日「考えるひとたち」に電話で出された「おねがい」について、質問があります。
抗 議行動を認めない、という事務局の方針は、おそらく「この企画通しちゃったし、今さら中止とかまずいよね…」という、運営上致し方のない判断のもとで、な るべく「問題」なく運営したいというお考えに基づいてのことかと思いますが、そのように理解してかまいませんでしょうか。
その場合、NF事務局は 上述(【KGCのみなさまへ】の1.)にあるような意味で、ジェンダーについても、差別についても、ファッションについても、問題をはらんだ企画、した がってジェンダー・差別・ファッションについて様々な経験や感情を持つ人々を非常に深く傷つけ、憤慨させるような企画を、運営上の判断として通す団体であ るということを、大学の内外に宣伝されることを選ばれたのでしょうか。公平であることと中立であることは全く異なっておりますが、その区分をお考えになっ ているでしょうか。NFが京都大学のみならず大学社会、あるいは京都市内でそれなりに注目されるイベントであること、そこで何が行われているかはたくさん の人々が関心を持っていること、そのような場で運営上の判断によって差別的行為を公に支援していると理解される行動をとっていること、そういった点をお考 えの上、今回の「お願い」を出されたのでしょうか。
以上です。どうぞみなさまが実りあるお話合いをなさいますよう。
2012年11月16日 署名